江戸の不動産

第1章 巨大都市・江戸の土地事情

 

徳川家康は天下人の地位を得たことで、諸大名を江戸城拡張に動員できるようになった。

 

諸大名を江戸に動員するには、諸大名やその家臣の生活拠点も必要になる。

 

江戸幕府は城郭建設と並行し、大名に土地を与えた。

 

その土地は制度上「武家地」、俗称として「大名屋敷」と呼ばれるようになる。

(屋敷は本来建物のことではなく土地を意味する。)

 

また江戸城はじめ、家臣、武家地に住む大名家族の生活物資や建設資材の必要性も高まった。

 

そこで商人や職人も誘致し、土地を提供するようになった。

 

「町人地」の誕生である。

 

多数の藩士が武家地に住み、武家地の人口が上昇。

 

藩士たちの生活を支える商人や職人の需要が高まり、町人地の人口も増加。

 

こうして江戸への人口集中が起きた。

 

人口集中は人口密度を高めたが、そのデメリットして一旦火災が起きると大災害になる危険性も高まった。

 

四代将軍家綱の時代に「明暦の大火」という大火災に見舞われ、江戸の過半が焼き払われてしまったのだ。

 

この大火災が契機となり、江戸幕府は江戸の防災都市化を目指す。

 

火事の延焼を防ぐ目的で「空き地(現在の「広小路」がその一つ)」を随所に設けた。

 

ところが何もない空き地はゴミ捨て場になったり、流れ者が住み着いたりするといった問題が生じる。

 

そこで幕府から管理を委託された町人は空き地で商売を希望する商人に空き地を貸し、地代を受け取ることにした。

 

空き地は江戸の要所に多数あったため、商店出店希望者が後を絶たない状況となる。

 

町人は地代収入でうるおい、幕府は空き地の管理負担を免れるという双方にメリットがある公共地の管理手法と、江戸の賃貸不動産業が生み出されたのだった。

 

 

 

第2章 巨大都市・江戸の土地事情

 

江戸の約7割を占めたのが、幕府が大名や幕臣に与えた武家地である。

 

武家地は公有地だったので、年貢も免除されていた。

 

大名や旗本は年貢不要の武家地提供を幕府へ希望するも、武家地の増加は幕府の財政低下を意味する。

 

幕府は武家地の提供希望に次第に応じなくなった。

 

待ちきれなくなった武士は農地を買い漁ったが、農地には年貢が付いて回る。

 

その結果、武家地の「等価交換」により武家地獲得を目指す、不動産取引が発生することになる。

 

武家地は建前上幕府の土地で、所有権まで与えられた訳ではない。

 

ただし幕府は等価交換に限り、双方が合意していれば簡単な手続きで黙認していたのだ。

 

しかも等価交換と言っても、同一面積・同一価値の土地交換を意味するものではない。

 

土地の一部分割プラス金銭、あるいはたった三坪の土地と大半は金銭といった多様な取引形態も黙認されていた。

 

実質的には不動産売買と言って良い取引が、始まったのである。

 

ところが取引が活発になり、現代風に言えば土地転がしで財をなす大名も現れ始めた。

 

そこで幕府は一時的に規制に乗り出す。

 

しかし幕府の老中が財政建て直しの一環として、地上げのような行為を行いだしたため、規制は有名無実化していった。

 

一方下級武士は多くの武家地を与えられなかったので、今で言う賃貸業に乗り出し、家賃収入を得て生活費の足しにするようになった。

 

こうして不動産取引にせいを出す大名や旗本が増加したが、これまで買い漁っていた農地が負担となってきた。

 

管理費負担に加え、飢饉発生時の生活援助まで求められていたからである。

 

その結果農地を手放すようになり、郊外の農地は再び農民の手に戻っていった。

 

 

 

第3章 町人・農民の不動産ビジネス

 

江戸時代の土地取引に参入したのは武士だけではない。

 

なし崩し的に売買が可能になっていった町人地で、豪商、豪農と呼ばれる経済力のある町人、農民も活発に土地取引を行うようになる。

 

なぜ土地取引を行うようになったか、理由は次の三つだ。

 

一つは江戸での商売の拠点作り。

 

二つ目は土地所有が資金借入れにおける信用の裏付けとなったこと。

 

三つ目は地代・家賃収入の確保。

 

こうした土地取引の活発化を背景に、現代の不動産屋にあたる「地面売買口入世話人」という仲介業者も現れた。

 

地面売買口入世話人は同業者でネットワークを構築し、物件情報の提供から下見、売手と買手の価格交渉、契約の立会いなど、不動産取引をトータルでサポートしていた。

 

活況を呈しているかに見えた江戸時代の不動産ビジネスだが、特有のリスクもあった。

 

一つが火災である。

 

火災によって貸家が消失してしまえば、その再建費用は家主の負担になる。

 

また地主にも灰の片付けや損傷した井戸の修復費などが、発生した。

 

土地と貸家両方を所有していた場合の負担は、莫大だったと言って良い。

 

加えて貸家には家賃滞納リスクもあり、特に賃貸経営はハイリスクな事業となる。

 

そこへ大打撃となったのが、天保十三年に発せられた地代・店賃代引き下げ令である。

 

賃料負担を軽減し、物価抑制を目指した政策だが、これにより不動産取引での地代・家賃収入のメリットは失われることになる。

 

土地所有は拠点作りと信用の裏付け以外の目的が、なくなってしまったのだ。

 

 

 

第4章 幕府の土地を私有地にする裏技

 

堀江家は、昭和時代まで存続した「四谷新堀江町」を築いた豪農である。

 

堀江家は空き地に目をつけ、幕府に粘り強く交渉した結果、拝借の許可を取り付ける。

 

堀江家は「茄子苗の植付地とする」という名目で拝借の許可を得たが、実際の植付は行わず、又貸しによって地代収入を得ていた。

 

しかし空き地だったことからゴミの不法投棄が絶えず、管理上の大きな問題になってきた。

 

空き地は本来火災延焼が目的のため、塀で囲うことや管理用の小屋設置は禁止されていたので不法投棄に対処できなかったのだ。

 

また空き地はあくまで幕府の公有地である。

 

幕府の命令があれば、速やかに土地を返却しなければならず、長期的な不動産事業を行う上で不安定要素でもあった。

 

そこで堀江家は拝借地の一部を町人地に切り替え、家屋を建てることを企てる。

 

当然正面突破では許可はおりない。

 

そこで堀江家は幕府の陰の実力者に対し、賄賂を通じた裏工作を行った。

 

幕府の政策決定システムに精通し、各方面に顔がきく御同朋頭(ごどうほうかしら)の林阿弥(りんあみ)が陰の実力者の代表格である。

 

林阿弥は堀江家の請願を実現するべく、関係者へ根回しを行うとともに、請願の障害となりそうな近隣の名主や武家屋敷への対応策を堀江家へ伝授した。

 

それに従って堀江家は近隣の名主へ金品を渡した他、近隣町の管理費負担も約束した。

 

堀江家は多大な散財となったが、こうして新町の誕生は成功する。

 

農民による幕府拝借地の実効支配に成功した、初の事例となったのだ。

 

 

 

第5章 東京の誕生

 

ペリー来航で海外列強国の軍事力を見せつけられた江戸幕府は、安政元年に日米和親条約を締結。

 

江戸幕府は開国へと踏み切った。

 

その結果、幕府の権威は失墜する一方、京都の朝廷の権威が急浮上する。

 

そうした流れに拍車をかけたのが、参勤交代制緩和である。

 

参勤交代の経済的負担を軽減する代わりに、大名へ軍事力を備えさせるのが狙いだった。

 

しかしその結果、江戸にいた大名家臣や家族が国元へ帰り、武家屋敷から次々と人の姿が消え、江戸衰退への引き金となったのだ。

 

江戸は大政奉還などを経て、幕府から新政府へと譲渡され「東京」と改名された。

 

幕府消滅により武家地は次々に没収され、全て官有地となった。

 

大名屋敷が集中していた千代田区の大手町や丸の内は、官庁街へと変貌する。

 

一方私有地だった町人地は没収を免れ、新たに地券を発行され、納税義務と共に所有権を認定された。

 

「地租改正」である。

 

実は参勤交代緩和や広大な武家地没収で、幕末から明治初期にかけて東京の人口は減少していた。

 

しかし新政府のもと、社会が安定しだすと東京は再び人口増へと転じる。

 

地租改正という行政改革を通じ、東京の土地は全て売買対象となったことから不動産売買も活発に行われるようになる。

 

それが東京発展の下支えとなったことは、言うまでもない。